自分の決めたことを行えた日の充実に、幸せを感じる毎日が幸せの道

 皆さま、こんにちは。 ロシアによるウクライナ侵攻が今も続いています。本人の意思に関係なく、それまでの生活が一瞬にして奪われたり、命すら落すようなことが一刻も早く終わることを心から願うばかりですが、一方で、戦争を止める力が、これほど限られていることにもショックを覚えます。皆さまはどうお考えになりますか。

 私は戦争を知らない世代で、今も戦争をするほど馬鹿げたことはないと考えて生きています。これは誰もが同じだろうと思っていますが、実際にはあちこちで戦争状態にはなるし、ウクライナの市民が武器を取る道を選ぶ姿を見ると、私の理性など、自分の身が安全だから言えることとも思えます。事実、私は家庭や会社にあって、思うようにならないときに嫌味を言ったり、自分の正当性を主張しようとします。こちらの都合に合うように、オーバーに伝えるか過少に伝えるか、伝えないことだってあります。戦争を非難する気持ちでいながら、私だって妻や部下を相手に戦争と同じことをしていると反省せざるをえないのです。それとこれとは別、戦争のような大事になれば、もっと理性を働かせることができると思うのは間違いのような気もしています。

 そう考えると、普段、気持ちが収まらない時の私の行動の修正が必要です。「私が妻や部下とどんな関係でいたいか(目標)」と、どんな気分の時にも行動が目標に合っていること。妻には嫌われず、仲良くしていたいと思っていますし、部下には気安く声をかけてもらえ、自主的に仕事の判断をしてほしいと考えています。であれば、私がカチンときて、嫌味や自分の正当性を主張することは明らかに間違いです。目標やどう生きるかは、北極星のように、どんな気分の時も変わらない行動を促していますから、あとは自分をコントロールするだけです。

 にわかには理解できない話ですが、あるご両親の話です。小学校3年生の息子さんが夏のプールの時間に友達から背中を押されてコンクリートに頭をぶつけ、プールに沈んで亡くなったそうです。母親は「推したのは誰だ。犯人を見つけるまで、学校も友達も絶対に許さない」と怒りがやみません。ご主人は泣きながら、「犯人を見つけたら、その子の両親はこれから自分の子供は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きなくてはならない。(ただの水の事故にして)わしら二人が我慢しよう。」と諭しました。母親はびっくりしましたが、ご主人が何度も強くそう言うので最後は同意して許します。30年が経ち、今も命日には墓が磨かれ、友達が花を手向けているのだそうです。恨みや賠償とは別世界の、優しい人を育てることが見事に花開く、示唆に富んだ話だと私には思えます。

 ほしい結果や目的があるなら、今日するべきことを、いろんな理由をつけて後回しにしたり、気分次第の言動で自分の気持ちを晴らしてはいけないのです。本当に必要なのは、嫌なことがあったら、それを忘れるように気を紛らしたり、するべきことはやる気にならなくてもまずは始めたり。それができない私のままでは、いくら戦争は馬鹿げていると言っていても、その状況に立たされたら、恐らく武器をとってしまう。世界がこれほど戦争に対して抑止が効かないのは、多くの人が私のように自分をコントロールできないからかもしれません。

 楽しいことがあったから楽しい日、嫌なことがあったから嫌な日のように、つい、私たちは自分の気分で良し悪しを判断します。 森田療法という精神療法を構築した森田先生は相談者に、「期待する結果でなくても、するべきことをした日を良い日としなさい」とアドバイスしたそうです。起こったことに一喜一憂する人生よりも、自分の決めたことを行なえた、その日の充実に幸せを感じる毎日が幸せの道だと思います。幸せのためにするべきことが、人と戦うことであるとは考えられないと思うのです。

プラスデコ代表 原田 学