幸せの正体

皆さん、こんにちは。春までもう少し、と書きたいところですが、これを書いている今日はとても寒くて、思わずこの冬を通して一番の厚着をしています。インフルエンザや新型コロナの流行は少し落ち着いたようですが、油断は大敵です。何をおいても健康を第一に考えて暮らしてまいりましょう。

さて、リーダー研修などでよく言われることに、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えましょう」というものがあります。与えられた魚は食べてしまえばなくなりますが、釣り方がわかっていれば、食べたいときに食べたいだけを釣ればいいので、この教えはもっともです。しかし、これで「わかったつもり」になっていると、現場に戻っても使い物にはなりません。私たちにとって魚とは何かや、その正体がわからなければ、やはり具体的な釣り方はわからないものです。魚を「幸せ」に置き換えて考えると、親としても社長としてもドキッとします。

子どもや社員さんには幸せになってほしいとは思いますが、「幸せとは何か」やその正体をわかっているとはとても言えないからです。私は長い間、知識は力で、知識のある人にはかなわないと思っていました。しかし、私が少しぐらい知識をつけたからといって、私が自由にしたいことをできるようになったり、思い通りの目標や目的に達することはありませんでした。そんな知識を子どもたちや社員さんに教えても意味がありません。

私は小学4年生のとき、「親しい友人に手紙を書く」という授業を受け、親しいと思っていたのに距離を置いてしまった友人のM君がいます。私が親しいと思って差し出した手紙は一方通行で、M君からの手紙は私に届きませんでした。正直、この授業には恨めしい気持ち以外は残りませんでした。社会人になり、同僚とお酒を飲んでいたときのことです。私はこの授業の恨めしさやひどさに賛同してもらおうと話を切り出したのですが、同僚が思わぬ質問をしました。「その彼は、誰に手紙を書いたの?その相手からは手紙をもらえたのかね?」 その瞬間、私にとってそれまで恨めしい!ひどい!以外の何ものでもなかった授業がまったく違うものになりました。「そうだ、M君はどうだったんだろう」もし、彼も一方通行だったのなら、M君と私は同じ状況だったことになります。私は惨めで悲しい気持ちが先立って、彼がどうかなんて思いも寄らず「なんてひどい授業!」と決めつけて、M君との友情を育む世界を捨てていたのだと思いました。大切にする友だちがいることは幸せなことだと思いますが、感情的になって事実を観ようとしなかったのは大きな失敗だったと思います。これは一つの失敗のように思えますが、私があらゆる場面で目の前の事実をありのままではなく、自分が見たいように見ていることを表しています。受け入れたくないと思うことほど感情は横において、事実をありのままに受け入れる努力をして、「どうなりたいか」に必要なことをしないと、なりたい私になる(幸せになる)道はないのだと思いました。

もう1つ。私は就職して配属先を決めてもらうとき、受け入れ予定の部署リストから希望先を3つ書いて提出するように言われました。今にして思うと社会性がないと言うほかありませんが、私はリストにはない「広報」を混ぜて書いて出しました。人事部との面談で、そのことは注意されましたが、2年後に、配属された先の事業部長に呼ばれて聴かれました。「原田君、君は広報を志望しているらしいが、今でも希望するか?」広報に空きが出ての打診のようでした。そのときには、就いた業務に一所懸命でしたし、「この仕事を続けたいです」と答えました。その後、事業部長には広報と連係して行う仕事も任せてもらいました。人事担当者が、私がルールを破って書いた希望まで記録に残しておいてくれたり、事業部長にはその希望に少しでも関わる仕事をさせていただきましたが、私には過分とも言える幸せなことだったと思います。していただいていることを見逃さなければ、幸せな私があちこちに見えてきます。

幸せの正体がわかれば、なり方がわかって来ると思います。誰かにもらう幸せよりも、自分で作る幸せの方が、自分らしいということにもなると思います。どうせ生きるのなら、自分にとって何が幸せなのかを定め、その正体を知って、そうなるように生きてみようと思います。

プラスデコ代表 原田 学